今月の立ち読み

未来に語り継ぎたい名馬物語(74)

未来に語り継ぎたい名馬物語(74)
府中にこだましたナカノ・コール
アイネスフウジンと歓呼の叫び
文 = 有吉正徳

今月の立ち読み

1990年の日本ダービー。力強く逃げ切ったアイネスフウジンと中野栄治騎手に贈られたのは、20万人に近い観客の大歓声だった。
自然発生的に沸き起こったナカノ・コールは、競馬の新時代を開くものとなった。


 1980年代後半から1990年代前半にかけて、第2次競馬ブームが巻き起こった。

 武豊騎手が1987年にデビューし、翌1988年にはオグリキャップが地方競馬の岐阜・笠松から中央競馬に移籍した。天才ジョッキーとアイドルホースが世間の目を競馬に向けさせた。1990年は第2次競馬ブームのど真ん中だった。

 それは馬券の売り上げと競馬場への入場者という2つの数字で証明される。この年、中央競馬の年間の馬券の売り上げは史上初めて3兆円を超え、3兆984億5725万9500円に達した。前年の2兆5545億2016万3200円から21.3%もの伸びだった。中央競馬は1954年の創立以来、4兆円を売り上げた1997年まで、ほぼ毎年のように右肩上がりの成長をしていた。けれども年間の売り上げが前年から5400億円も増えたことなど一度もなかった。

 競馬場への入場者も1990年は1068万7344人を数え、8年ぶりに1千万人超えを果たした。前年からの伸び率は16.9%。10%以上の伸びを見せたのはハイセイコーが地方競馬の大井から中央競馬に移籍した第1次競馬ブームの1973年以来17年ぶりのことだった。

 そんな競馬ブームど真ん中の1990年に日本ダービーで優勝したのがアイネスフウジンだった。レース当日、東京・府中市の東京競馬場を訪れたファンの数は19万6517人。32年後の今も中央競馬の最多記録として残る空前絶後の数字だ。

 アイネスフウジンは史上もっとも多くのファンに優勝を祝福された日本ダービー馬なのである。

長命だった父と、死の淵から
よみがえった母との間に誕生

 1987年4月10日、アイネスフウジンは北海道浦河町の中村幸蔵さんの牧場で生まれた。父シーホーク、母テスコパールという血統だった。

 1963年にフランスで生まれたシーホークは現役を引退後、アイルランドで種牡馬になり、1974年1月、11歳の時に日本に輸入された。アイルランド時代に残した産駒からは、ブルーニ(英セントレジャー)など数多くの活躍馬が誕生した。

 1982年にはモンテプリンスが天皇賞(春)を制し、初めて八大競走の勝ち馬になった。さらに1984年にはモンテプリンスの全弟であるモンテファストが天皇賞(春)で1着となり、兄弟による天皇賞制覇を成し遂げた。

 1989年にはウィナーズサークルがダービー馬となった。アイネスフウジンのダービー制覇はシーホーク産駒の2年連続ダービー優勝でもあった。23歳の時に種付けして誕生したアイネスフウジンがダービー馬に輝いた。ダービー馬の父としては最高齢記録として残る。

 アイネスフウジンの母テスコパールは競走馬になることができなかった。幼いころに生死の境をさまようほどの下痢に見舞われ、獣医師も見放したという。しかし中村幸蔵さんの父吉兵衛さんはあきらめなかった。いったんは診療所に預けたテスコパールを牧場に連れ戻し、好きなだけ飼い葉と水を与えた。すると、やせ衰えていたテスコパールはみるみる体調を取り戻した。

 5歳になった1981年に初子を出産すると、その後も毎年子どもを産み、7年目にアイネスフウジンを送り出した。長命だった父シーホークと死の淵からよみがえった母テスコパールとの間に誕生したアイネスフウジンはすくすくと育っていった。この馬に注目したのが美浦トレーニング・センターに厩舎を構える加藤修甫調教師だった。当歳のアイネスフウジンを見て、すぐに管理することを決めた。


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