今月の立ち読み

未来に語り継ぎたい名馬物語(72)

未来に語り継ぎたい名馬物語(72)
日本馬で初の凱旋門賞挑戦
スピードシンボリと新時代の扉
文 = 江面弘也

今月の立ち読み

陣営の熱い想いを乗せ、二度海を渡り、初めて凱旋門賞に挑戦したスピードシンボリ。
遠征を経て逞しく輝いた彼の戦いこそ、日本競馬の“原点”のひとつとも言える。


 有馬記念連覇と二度にわたる海外遠征――。

 スピードシンボリを語るときの、ふたつのキーワードである。

 有馬記念の連覇は史上はじめてのことだった。現在とは違って、レースの選択肢が限られ、すべての馬が有馬記念をめざしていた時代の連覇である。それを、スピードシンボリは6歳、7歳でやってのけた。

 二度の海外遠征は4歳と6歳で、まだ日本馬のレベルが欧米先進国に遠くおよばなかった時代――一般の日本人には海外旅行さえ夢だった時代――にアメリカのワシントンD.C.インターナショナルとイギリスのキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークスというビッグレースで5着となったのだ。その価値ははかりしれない。

先進的なヨーロッパの血統と
育成方法を導入

 スピードシンボリをつくったのはシンボリ牧場(千葉県香取郡町=現・成田市)の和田共弘である。

 日本競馬を代表する名オーナーブリーダーとして知られる和田は、社台ファームの吉田善哉とよく比較された。日本人のほとんどがヨーロッパから馬を買ってきていた時代にアメリカに進出していった吉田は、自ら「太平洋を股にかけた博労」と称し、貪欲に馬を売買し、世界に名だたる巨大牧場グループの土台を築いた。一方、イギリスやフランスの格式ある競馬を憧憬していた和田は、アメリカの競馬を「箱庭競馬」と揶揄し、「博労」の意味があるということで「伯楽」と呼ばれることも嫌った。ヨーロッパのオーナーブリーダーのように、自分の手で理想とする競走馬をつくることに喜びを見出していた和田の到達点がシンボリルドルフであり、母の父として血をつたえたのがスピードシンボリである。

 スピードシンボリ(父ロイヤルチャレンヂャー、母スイートイン)は1963年5月3日に北海道町の日高シンボリ牧場でうまれた。いかにもステイヤーらしく、体全体が薄く、ひょろりとして、脚の長さがめだった。しかし体は柔らかく、バネがあった。

 和田は31歳だった53年に5か月間かけて欧米の競馬場や牧場をまわっているが、このときイギリスで目をつけたライジングライト(イギリスの大種牡馬ハイペリオンの産駒)を2年後に輸入している。スイートインはライジングライトの娘で、それにロイヤルチャレンヂャーを種付けしたのは、ライジングライトの牝馬にロイヤルチャージャー(ロイヤルチャレンヂャーの父)を配合された馬が活躍するのをヨーロッパで見てきたからだ。

 日高の牧場でうまれたスピードシンボリは千葉の本場に移動したあと、さらに岩手県種市町(現・町)の高原につくられた岩手シンボリ牧場に移って本格的なトレーニングが積まれている。

「育てる場所を変えなさい。環境を変えることで、肉体的にも精神的にも強い馬に育つのです」

 ヨーロッパ旅行中、BBA(イギリスのサラブレッドの商社)の会長だったマクリゲットという人物からそう教えられた和田は、岩手にも牧場を開設し、北海道、千葉、岩手と馬を移動させながら育てる「三元育成」をスピードシンボリの世代からはじめている。生産牧場と育成牧場を分けるのは現在ではごく普通におこなわれているが、当時の日本では画期的なシステムだった。

奥手が一気に花開きタイトルを
引っ提げての海外挑戦

「三元育成」で鍛えられたスピードシンボリは65年10月に野平富久厩舎(中山)からデビューする。野平富久は母のスイートインを管理していた野平省三の長男で、スピードシンボリの主戦騎手となる野平祐二の兄である。

 スピードシンボリは奥手の馬だった。2歳時に3勝し、3歳の春には京成杯に勝っているが、皐月賞21着、ダービーも8着に敗れた。そのあと、菊花賞では14番人気で2着になった。1番人気のナスノコトブキをゴール前で激しく追いあげ、鼻差まで迫っている。

 菊花賞を境にしてスピードシンボリは大きく変わる。有馬記念も3着と健闘し、4歳になるとアメリカJCCと目黒記念を連勝し、春の天皇賞ではカブトシローを破って優勝する。単勝1.8倍の人気に応える堂々たる勝利だった。つづく日本経済賞も3馬身差で完勝し、秋に備えて岩手で英気を養っているとき、アメリカからうれしい知らせが届いた。ワシントンD.C.インターナショナルへの招待だった。


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