今月の立ち読み

未来に語り継ぎたい名馬物語(63)

未来に語り継ぎたい名馬物語(63)
挫折と栄光を横山典弘騎手と共に
メジロライアンの歩んだ道
文 = 斎藤 修

今月の立ち読み

若き横山典弘騎手と頭角を現し、クラシックに挑むも3、2、3着。
GⅠの壁は高くとも挑み続け、6度目の挑戦となった宝塚記念で結実した。
人馬で成長を重ね、ファンに愛された名優の姿をここに振り返る。


 時代が昭和から平成に変わるころ、競馬場の景色が一変した。

 おじさんたちの聖域だった競馬場に若者が押し寄せた。スターホースのぬいぐるみが飛ぶように売れ、若い女子たちはそのぬいぐるみを抱え、騎手や馬に声援を送った。それまで騎手にかかる声といえば、多くは馬券おやじのヤジだったが、それが黄色い声援に変わった。

 競馬場に若者やファミリー層を呼ぶことはJRAにとって長年の課題となっていたが、CMなどイメージ戦略を続け、それが現実のものとなった。笠松から中央に移籍して痛快に勝ち続けたオグリキャップや、デビューして間もなく“天才”と言われるようになった武豊騎手の活躍があってこそだが、バブル景気も相まっての競馬ブームは、社会現象といえるほどの盛り上がりだった。

 一方で、競馬場は慢性的に混雑し、GⅠレースともなれば、パドックを見て、馬券を買って、レースを見る、という当たり前の行動がままならない。席取りが横行し、傍若無人に振る舞う若者も少なくなかった。ベテランの競馬ファンには違和感や不満もあったはず。

 そうした盛り上がりと喧騒の競馬ブームの象徴が、“ナカノ・コール”に迎えられたアイネスフウジンの日本ダービーであり、ラストランで奇跡の復活を見せたオグリキャップの有馬記念ではなかったか。そのレースで、ともに2着という脇役に甘んじたのがメジロライアンだった。

 所属は美浦の奥平真治厩舎。1986年にメジロラモーヌが牝馬三冠を制して以降、“メジロ”の有力厩舎となっていた。

メジログループが得ていない
タイトルへ高まる期待

 89年、2歳7月の函館開催でデビューしたメジロライアンは、初勝利まで4戦を要した。主戦となる横山典弘は3戦目の未勝利戦で初めて手綱をとり、4戦目の東京芝1600㍍戦で初勝利に導いた。デビュー4年目、まだ「☆」が付く見習だった。

 12月3日の葉牡丹賞(中山芝2000㍍、400万下)は安田富男で5着。鞍上が横山に戻った12月23日のひいらぎ賞(中山芝1600㍍、400万下)では7番人気という低評価を覆しての勝利。4コーナーでもまだ12番手だったが、直線坂を上がってからの伸びが圧巻だった。

 年明け初戦のジュニアC(中山芝2000㍍)も断然人気馬を差し切って勝利。いよいよクラシックが見えてきた。そして臨んだ弥生賞は2番人気。単枠指定(9頭立て以上のレースで、人気が集中しそうな馬を単枠(1枠1頭)に指定する制度)で断然人気に支持されたアイネスフウジンは、逃げたものの不良馬場に苦しめられた。直線、メジロライアンは馬群から一気に突き抜けた。道悪への適性はその後の武器にもなった。

 “新星誕生”。クラシックへ向けての期待が一気に高まった。“メジロ”の冠号で知られるメジログループは、それまで天皇賞4勝に、菊花賞も勝っていたが、皐月賞、日本ダービーのタイトルはなかった。かつてそのメジロの主戦騎手として活躍したのは、典弘の父である富雄。この年、正月の金杯・東をメジロモントレーで制していた典弘は、その“メジロ”の期待を、父から引き継ぐことになった。

 2番人気の支持を受けた皐月賞は、追い込み届かず3着。勝ったのは、未勝利戦からきさらぎ賞まで5連勝で臨んだハクタイセイ。弥生賞に続いて1番人気に支持されたアイネスフウジンは4コーナー手前で先頭に立ったもののクビ差2着。メジロライアンはそこから1馬身3/4遅れてのゴールだった。


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