今月の立ち読み

未来に語り継ぎたい名馬物語(37)

未来に語り継ぎたい名馬物語(37)
いまなお心をときめかせてくれる名馬。
記憶の中のマルゼンスキー
文 = 広見直樹

今月の立ち読み

持込馬はかつて、日本ダービーに出走できないなど、今とは比べ物にならない制限を受けていた。そんな不遇の時代に登場したのが、マルゼンスキーである。僅かに8戦のキャリアながら、オールドファンの間では現在もその圧倒的な強さは語り草になっている。ここでは、同馬の歩みを振り返っていこう。


 41年前。1977年。第22回有馬記念。

 当時の現役最強馬、トウショウボーイ、テンポイント。そして2頭との距離を少しずつ縮めてきたグリーングラス。後にTTG時代と称される名馬が雌雄を決した一年を締めくくる大舞台グランプリ。伝説の名勝負として、いまでも多くの競馬ファンの間で語り継がれている。

 そんな時代をリアルタイムで競馬に親しんでいた者にとって、戦前、この有馬記念は、これまで観戦したことのないドリームレースになる、と期待に胸を躍らせた“至福の時”があった。

 彼らより一つ年下の3歳馬。ここまで8戦全勝。どれほど強いのか、その本当の実力は未知数で、それゆえ無限の可能性を秘めた若武者が参戦を表明。はじめて最強馬に挑むはずだった。

 もしも彼らの対決が実現していたら…。1977年の有馬記念は、一体どんな結末を迎えただろうか。いまとなっては勝手な想像を巡らすしかないが、一つだけ言えることはある。

 伝説を超えた名勝負。
 こんな風に語り継がれているはずだ。
 マルゼンスキー。

1年2カ月の競走馬生活だったが、
彼はスーパー・スターであり続けた

 40年以上もの時は流れたが、いまだに心をときめかせてくれる名馬。わずか1年2カ月の競走馬生活だったが、その短い時間、彼は確実にスーパー・スターであり続けた。

 73年、アメリカの競走馬競り市として名高いキーンランドセールで1頭のサラブレッドが日本人の手によって落札された。シルと言う名の繁殖牝馬。彼女はイギリスの三冠馬・ニジンスキーの子供を宿していた。偉大なる父の血を継承した子の母として、シルはこの年のセールの目玉だった。それが海の向こうの、当時はまだ競馬先進国の仲間入りを果たしていなかった日本の牧場経営者((善)橋本牧場)で、馬主の橋本善吉が落札した。その額は9000万円。40年以上も昔の話である。かなりの高額であったことは誰もが理解してくれるだろう。

 ここに至る経緯は割愛するが、いずれにしても、この結果には現地でも驚きの声が上がった。

 海を渡り日本にやって来たシルは、翌年、無事に男の子を出産した。世界的名馬の息子の誕生。ファンも含め競馬界全体が、マルゼンスキーと名付けられたサラブレッドに熱い視線を送った。

 成長するにつれ、そのバランスの取れた美しい馬体を称賛する声は挙がったが、一つだけ気になる点も指摘された。前脚の膝から下の部分が多少外側に曲がっていた。いわゆる「外向き」。競走能力に影響するのではないか、と心配をする声も聞こえてきた。

 そんな周囲の相反する評価とは無関係にマルゼンスキーは競走馬としてデビューするための訓練を着実にこなしていった。が、誕生した瞬間から彼の前には決して越えられない大きな壁が立ちはだかっていたことも事実だった。

 持込馬。マルゼンスキーのように母親が子供を宿し輸入され、日本で生まれた子のことを指すが、60年代までは内国産馬として他の馬たちと分け隔てなくレースに参加することができた。しかし、71年にそれまで許可を受けなければ輸入することができなかったこの制度が撤廃された。いわゆる活馬の輸入自由化である。つまり、特別に許可を得ずとも海外の名馬の子供を自由に輸入し、日本で走らせることができるようになったのだ。

 時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、この自由化で持込馬が増え、国内のサラブレッド生産者が打撃を受けることは想像に難くない。競馬発展のためにも内国産馬振興に目を向けなければならない。その一環として持込馬が出走できるレースが制限されることになった。

 たとえば、クラシックレース(桜花賞、皐月賞、オークス、ダービー、菊花賞)、春と秋の天皇賞、さらに有馬記念。八大競走と呼ばれるビッグレースのうち、参戦できるのは有馬記念のみとなった。

 この制限は84年には撤廃されたが、この時点ではマルゼンスキーが、たとえどれほど強くてもクラシックレースへの出走はおろか登録すらできないという、彼にとっては不条理な現実が待っていたのだ。

 しかし、彼が懸命に馴致に励んでいる頃、そんな“宿命”に思いを巡らせるファンは少なかった。3歳の春を迎え、日本ダービーが間近に迫ってくる頃までは―。


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