今月の立ち読み

未来に語り継ぎたい名馬物語(77)

未来に語り継ぎたい名馬物語(77)
逃げの手で春二冠を奪取
サニーブライアンと鋼の意思
文 = 石田敏徳

今月の立ち読み

直近では最も新しい“逃げ切り勝ちのダービー馬”のサニーブライアン。
根っからの逃げ馬ではないこの馬の栄光には、騎乗した大西直宏騎手の強い気持ちがあった。


 歴代89頭のダービー馬のうち、逃げて戴冠を果たした馬は11頭を数える。平均すれば8、9年に1頭の割合で出現している計算になるが、「ダービーの逃げ切り」は途絶えて久しい。最後に逃走劇を演じたのは1997年のサニーブライアン。皐月賞も“逃げ同然”の戦法で押し切った二冠馬である。

 スタートダッシュがそれほど速くなく、その気になれば好位に控える競馬もできたこの馬は決して「天性の逃げ馬」ではなかった。63年のメイズイ、75年のカブラヤオー、92年のミホノブルボン。逃げて二冠(皐月賞、ダービー)を制した他の3頭と比べても異彩が際立つ。

 そんな馬がなぜ、逃げの戦法で二冠のタイトルを勝ち取ったのか。突き詰めれば理由はひとつ。コンビを組んだ大西直宏騎手が「勝つために逃げる」という鋼の意思を貫いたからだ。

ゴールドスペンサーを仲介に
深まっていった人々の絆

 サニーブライアンの宮崎守保オーナーは32年12月14日、埼玉県に生まれた。宮崎家は浦和の資産家で48年にオープンした浦和競馬場の地主の1人でもある。彼の学生時代、競馬場──まだ厩舎施設が整備されていなかった──の近くに建つ広大な家の一角では現役の競走馬が飼養されており、その1頭にヒサトモがいた。

 37年のダービーに優勝、史上初の“牝馬制覇”を果たしたヒサトモは翌秋の天皇賞も制して引退し、繁殖生活に入った。しかし終戦直後の混沌とした世情のもと、様々な事情から再びレースに駆り出され、49年の秋、浦和で心臓麻痺に倒れて悲運の最期を迎える。埼玉県浦和競馬組合が2019年に刊行した「浦和競馬場開場70周年記念誌」には、宮崎オーナーが書き残したこんな手記が掲載されている。

「私のところにきた老齢のみすぼらしい牝馬は心臓を患って苦しみながら死にました。かわいそうでした。私が初めて触った馬でした。あとで分かったことですが、この哀れな牝馬は昭和12年のダービーを勝ち13年の天皇賞に優勝したヒサトモのなれの果てでした」

 やがて政治の道を志した彼は67年、浦和市議会議員選挙に立候補し、初当選を果たす。75年には史上最年少の若さで同議会の議長に就任。その後、県政に転じ、数々の要職を歴任した。

 馬主となったのは政治家として頭角を現した40歳の頃で、数年後に所有したゴールドスペンサーは川崎記念を連覇するなど南関東の一線級で活躍。5歳時の秋に美浦トレーニング・センターの中尾銑治厩舎へ移籍し、所属の大西騎手とコンビを組んだ81年の第1回ジャパンCで日本馬最先着の5着と気を吐いた。

 一方、サニーブライアンの祖母サニーロマンは宮崎オーナーの所有馬として浦和で走った後、浦河町の村下ファーム(現在の名称は丸村村下ファーム)で繁殖生活のスタートを切った。牧場との縁を繋いでくれたのは、南関東時代にゴールドスペンサーを管理した浦和の中村秀夫調教師だったという。その4番仔サニースワロー(父スイフトスワロー)は中尾厩舎に入り、大西騎手が騎乗した87年のダービーで2着。優勝したメリーナイスには6馬身差をつけられたものの、まったくの低評価(24頭中22番人気、複勝配当4680円)を覆した激走に関係者は沸き立ち、“準優勝祝いの会”を開いたという。ゴールドスペンサーを仲立ちに結びついた人々の絆はこうして深まっていった。


続きは、9月24日発売の『優駿』10月号でお読みください。

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