ページの先頭です

今月の立ち読み

未来に語り継ぎたい名馬物語

 メジロマックイーンの現役時代は私の“駆け出し”の時期とちょうど重なる。スポーツ紙の新米競馬記者として私が取材の現場に出たのは、メジロマックイーンがデビュー(1990年2月)した2カ月後のこと。初めて栗東トレセンへ出張させてもらった同年の秋、京都新聞杯(当時は菊花賞のトライアル)に出走する関東馬のエース・メジロライアンに最終追い切りで先着して一躍、「菊花賞の伏兵」とクローズアップされたのがメジロマックイーンだった。

 父仔3代制覇を達成した4歳春の天皇賞を現場で見た記憶はないものの、秋の天皇賞では「GIレースで1位入線した大本命馬が降着(18着)処分を受ける」という前例のない事態に右往左往し、トウカイテイオーとの「世紀の対決」が注目された5歳春の天皇賞では、敵役のような立場──私はトウカイテイオーの番記者を務めていたのだ──で取材の現場を駆け回った。

 それ以前に私は大学時代の夏休み、所属していた競馬サークルの仲間と連れ立って日高の牧場を回った際に、生まれ故郷の吉田堅牧場を訪ねたこともあった。メジロマックイーンの母メジロオーロラは、当時はまだ無名の繁殖牝馬で、もちろん、記憶には残っていないけれど、翌春に誕生するメジロティターン産駒、つまりメジロマックイーンを身籠った母馬の姿を学生時代に目にしていた計算になる。さらに付け加えれば、メジロマックイーンが引退したのは私がフリーの競馬ライターになった93年の秋。故障発症の一報が飛び込んできた10月27日は、私の27回目の誕生日だった。

 そのように浅からぬ縁を持つメジロマックイーンについて、未来の競馬ファンに語り継ぎたいことが私には2つある。ひとつは父仔3代天皇賞制覇を呼び込んだ特異な生産のアプローチ、そしてもうひとつが「ステイヤー」という枠組みには収まりきらなかった能力の実像とその変遷について、である。


(続きは、6月25日発売の『優駿』7月号でお読みください。)

ページ上部へ