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今月の立ち読み

未来に語り継ぎたい名馬物語

 どんなに強い馬でもそうたびたびドラマチックな勝ち方ができるわけではない。何十年に一度という大記録をつくるには運やタイミングも必要だ。

 戦後はじめての牝馬のダービー馬となり、その後もいくどとなく劇的な勝利をものにしてきたウオッカが、「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」の投票で全体の4位、牝馬では断トツの1位に選ばれたのは当然である。

 ライバルのダイワスカーレットや昨年引退したジェンティルドンナなどウオッカに勝るとも劣らない評価と成績を残した牝馬はこれまでもいたし、これからも出現するだろう。

 しかし、ウオッカのような存在になれる牝馬は簡単には現れまい。大袈裟でなく、自分がいきている間にいま一度彼女のような牝馬に出会えたならば、それは望外のよろこびだ。

 ウオッカの名前を不動のものにしたのはいうまでもなくダービーである。

 2007年5月27日。

 あの日、自分がだれとどこでダービーを見ていたのか。あなたははっきりとおぼえているだろう。

 鹿毛なのに黒く見える馬体はぴかぴかに磨かれ、薄い皮膚の下にはやわらかな筋肉が張りつめている。その優美な体を周囲の男たちに見せつけるかのように、悠然と、しかしいくらか気持ちを高ぶらせた風情でウオッカは歩いていた。結果論ではあるが、オーナーの谷水雄三氏と角居勝彦調教師が桜花賞で負けた牝馬をダービーに参戦させた理由が、あのパドックから素人目にも見てとれた。

 そしてど真ん中を突き抜けてきた直線。歴史的なできごとが目の前で起きているのだという意外とはっきりとした意識の一方で2着3着はなにかと気をもみながら興奮して声をあげていたあの直線。あの瞬間。ウオッカは永遠に語り継がれていくべき名牝となった。

 牝馬のダービー馬はクリフジ(43年)以来64年ぶり、史上3頭めだった。見習騎手を乗せ、スタートで大きく出遅れる致命的なミスを犯しながらダービーを圧勝した伝説の名牝の名前とともに語られるレースを目撃できただけで、わたしはしあわせな気分になった。

 ウオッカをダービー馬にしたのはオーナーブリーダーの谷水雄三氏の信念によってくだされた決断だった。
「ダービーに出走させた理由のひとつに勝てば4勝めというのがありました」

 ダービーのあと谷水氏はそう語っていた。カントリー牧場(北海道新ひだか町)は父の谷水信夫氏が63年に開設した牧場で、昭和40年代には「谷水式ハードトレーニング」と呼ばれた厳しい調教によって2頭のダービー馬(68年タニノハローモア、70年タニノムーティエ)を育て、谷水氏の代になってからもウオッカの父タニノギムレットが勝っている。

 尊敬する父に並ぶダービー2勝め、牧場としてはダービー4勝というのが谷水氏の第一の目標だった。年間の生産頭数が十数頭という牧場の規模を考えればとてつもない記録でもある。これを上回るのはウオッカのダービーから7回が過ぎた現在でも下総御料牧場、小岩井農場、社台ファーム(以上6勝)、ノーザンファーム(5勝)という日本の競馬の支柱となってきた巨大牧場だけである。

 もうひとつ、谷水氏がウオッカをダービーに出走させた理由に、
「タニノギムレットの仔でダービーを取りたい」

 という思いがあった。「ダービー馬からダービー馬」と古くから言われ、競走馬生産の目標にもなっている。繰り返すが、カントリー牧場の規模の牧場でそれができたら奇跡だ。

 谷水氏の胸の内にはウオッカが阪神ジュベナイルフィリーズに勝った時点で「ダービー」の文字が宿っていた。

 ウオッカでダービーに挑む――。

 その思いはクラシックが近づくにつれて強くなり、桜花賞の前には「桜花賞に勝てばダービー」と公言している。ところが、桜花賞はダイワスカーレットの2着に負けてしまう。

 谷水氏は迷った。本心はダービーだったが、牝馬ゆえにオークスという選択肢もあったからだ。

 しかし、桜花賞で負けてもウオッカが3歳で一番強いという自信を失っていない谷水氏は初志を貫徹する。持ちタイムから計算してもダービー優勝の目安になる2分24秒台では楽に走れるはずだし、ストライドの大きな走りは東京の2400mに向いている。

 勝ったから言えることではあるが、それは「挑戦ではなくて勝算あってのダービー出走」だった。


(続きは、5月23日発売の『優駿』6月号でお読みください。)

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