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今月の立ち読み

THE LEGEND OF HEROES サラブレッド・ヒーロー列伝

デビュー2連勝を飾るも・・・

 1994年2月、東京のダート1400m戦でタイキブリザードはデビューした。のっしのっしと530kgの大きな馬体。だがデキは上々、稽古でもスピードとパワーのあるところを見せており、1番人気での出走だった。

 タイキブリザードは、2番手から抜け出しての1着、後続に4馬身差をつけて楽々と新馬勝ちを飾る。手綱を取った坂本勝美騎手いわく「まだ遊び遊び走っている」。

 2戦目として走った中山のダート1800m戦でも1番人気に推されたタイキブリザードは、その期待に応えて迫力あるレースを見せた。2着サクラローレルには3/4馬身差をつけただけだったが、その後ろは7馬身差。鞍上・岡部幸雄騎手も「直線ではまだ遊んでいる」と舌を巻くほどの素質を見せて、デビュー2連勝を飾ったのである。

 タイキブリザードを預かるのは、美浦・藤沢和雄厩舎。この頃の藤沢厩舎は、次代を担う厩舎のひとつからその最右翼へ、さらには日本一の名門へと躍進を果たす過程にあった。

 1998年の開業以来着実に成績を伸ばし、1992年の春にはシンコウラブリイがニュージーランドT4歳Sを勝って重賞初制覇を飾る。その秋にはJRA通算100勝をマーク、翌1993年、シンコウラブリイがマイルチャンピオンシップを勝利して初のGI タイトルも手にした。この年にはリーディングトレーナーにも輝いている。

 厩舎の躍進を支えたシンコウラブリイが引退し、これと入れ替わるようにしてタイキブリザード、後に高松宮杯を制するシンコウキング、朝日杯3歳Sと天皇賞・秋を勝つバブルガムフェローなどが疾駆、そしてタイキシャトルによる海外GI 制覇と、厩舎は着々と一流への道を歩んでいくことになるわけだ。

 藤沢厩舎は、まだ出られるレースが限られていた当時から外国産馬を積極的に受け入れ、3頭併せなど集団調教を敢行し、長期的な展望から各馬のローテーションを決め……と、独自のポリシーを持つ厩舎としても知られるところ。そのベースにあるのは“馬本位”という考え方である。

 各馬の能力を最大限に活かせるレース選択を心がけ、それゆえ、たとえ走れるコンディションにある馬でも適鞍がなければ使わないという方針を貫く。所属馬のデビューが他の厩舎より遅くなりがちなのはもはや有名だが、この使い出しの遅さは、暑い夏場に輸送やトレーニングなど厳しい環境に若駒を置きたくない、無事に長く走らせて少しでも素質を開花させるチャンスを増やしたい、という考えに基づくものだ。

 藤沢厩舎の特徴を数字で語るなら、勝率の高さ。1991年の初受賞以来、幾度となくJRA賞・最高勝率調教師の称号を獲得している。ただ、大物感を漂わせながら未完成であることもデビュー2戦で示したタイキブリザードは、その後、厩舎最大の特徴である勝率の高さに貢献できない日々を過ごすことになる。

 3戦目の毎日杯はアオリ気味のスタート、いきなり1馬身ほどのハンデを負ってしまう。直線でも前が壁になる不利を被り、坂本騎手は何とか外に持ち出して追うも及ばず、勝ったメルシーステージからクビ差の2着という結果。続くラジオたんぱ賞では日本ダービー3着馬ヤシマソブリンから半馬身差で2着。古馬と初対戦となった道新杯でも4着に終わり、函館記念ではワコーチカコに差されて2着。必勝を期して臨んだ福島民報杯では、またもヤシマソブリンに屈して4着と1番人気に応えられなかった。

 ここまで7戦、早くも5つの競馬場を転戦したタイキブリザード。厩舎の方針そのままに、狙いすまして適鞍に挑んできた。が、惜しいレースで5連敗。カネツクロスやサクラローレルといった素質馬を打ち負かし、惜敗続きの間もオフサイドトラップやホクトベガといった実力馬に先着、能力の高さを示してはいた。だから問題は結果よりも、レースぶりにあったといえる。

 デビュー当初は遊びながら走っていた馬が、いつの間にかムキになって力を発揮できなくなっていたのだ。ペースが遅ければすぐ掛かり気味になってしまい、そうなると、なまじパワーがあるため鞍上にも抑え切れない。岡部騎手に「もう少し『抜いて』走ることを覚えなければ」といわれるほどだった。

 また、一流馬に混じると末脚の切れで劣ることも事実としてあった。好位から抜け出すほぼ理想通りの展開であっても、最後には交わされてしまうのだ。

 ひとまずタイキブリザードには休養が必要、それが厩舎の判断だった。


(続きは、1月25日発売の『優駿2月号』でお読みください)

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