後続に2秒以上の差をつける
圧巻のデビュー勝ち
ニッポーテイオーのデビューは1985年の10月、東京競馬場の芝1600m不良馬場で行われた新馬戦だった。
好スタートからスっと2番手につけると、3コーナーから先頭に並びかけ、直線では後続をみるみる引き離す。陣営は「力を出せるのは良馬場」と考えており、また気性的な問題から能力を出し切れるか危ぶんでもいたのだが、結果は2着を2秒以上も突き放しての「大差」勝ち。後に2つのマイルGIを制するニッポーテイオーの、そのスピード能力の端緒を示す圧勝デビューだったといえる。
が、そこからしばらくニッポーテイオーは、持ち前のスピードを存分に発揮できないレースを繰り返した。
2戦目1800mの万両賞では楽にハナを奪ったが、直線失速して7着。明けて4歳、初めて挑む重賞の京成杯では絶好の2番手でレースを進めるも、3コーナーからは窮屈なところへ押し込められ、2着確保が精一杯。弥生賞は逃げを打って3着、皐月賞は3コーナーから大外をマクって一瞬の見せ場を作ったが、8着に敗れる。NHK杯も8着。
間隔が開いて急仕上げだったこと、マークされる不利、大外21番枠発走などそれぞれ言い訳の立つ敗戦だったが、陣営ではそうした細かな要因以上のものを感じていた。そのヒントは、ニッポーテイオーの生い立ちにある。
静内・千代田牧場で生まれたニッポーテイオーの母系を遡ればビューチフルドリーマーへと行き着く。第2代日本ダービー馬のカブトヤマや第4代のガヴァナー、年度代表馬に輝いたタケホープなど数多くの活躍馬を出し、近年ではダイワテキサス、ブラボーグリーン、ドラゴンファイヤー、ナイキアースワークなどがこの牝系の出身。わが国を代表する名牝系の1つである。
ビューチフルドリーマーから、種義、アストラル、第参アストラル、オーマツカゼと大正から昭和を縦断して血はつながり、1962年のオークス馬オーハヤブサへと至る。オーハヤブサの娘ワールドハヤブサは繁殖牝馬として千代田牧場に繋養されることとなり、そこで生んだのがエリザベス女王杯など重賞5勝をあげたビクトリアクラウンだ。
ワールドハヤブサの第一子、すなわちビクトリアクラウンの姉にあたるミスオーハヤブサは、レースを使われることなく繁殖に上がってチヨダマサコを生んだ。このチヨダマサコがニッポーテイオーの母である。
チヨダマサコは堂々の新馬勝ちを果たしたものの、骨盤を骨折したこともあって5戦1勝の成績で競走馬生活を終えた。牝馬らしからぬ幅のある馬体は繁殖に入るとさらに恰幅を増し、馬体重は600kgに近づいた。
初年度は仏短距離GIの勝ち馬サンプリンスが交配され、2年目には「重量級のチヨダマサコには、バランスを取るため華奢で薄手の馬を」という考えからリイフォーが選ばれた。リイフォーは、父がジャックルマロワ賞などを勝ったリファール、その父ノーザンダンサーというイギリス産馬で、自身はフランスで走って11戦3勝、重賞はマイルのGIII を勝っただけという戦績だ。アイルランドで種牡馬入りし、1年だけ供用された後に日本へやって来ていた。
テスコボーイ、その息子トウショウボーイ、アローエクスプレスらが覇を競い、後に通算10回もリーディングサイアーを獲得するノーザンテーストも成績急進中という当時の種牡馬勢力図にあって、リイフォーの注目度は決して高いわけではなかった。が、初年度産駒が欧米で走り始めると状況は一変。トロメオが英2000ギニーで2着、サセックスSでも2着と好走し、アーリントンミリオンで遂にGI勝ちを飾る。ロイヤルヒロインもハリウッドダービーを勝ち、ブリーダーズCマイルで1着。この活躍を受けてリイフォーは、日本ではわずか4シーズンを過ごしただけでアメリカへ渡ることになったのだ。その数少ない産駒で1986年にはリーディングサイアーランキングの第2位に輝いたのだから、日本への適性も高かったはず。そのまま国内にとどまっていれば、あるいは日本の競馬史も塗り替えられていたことだろう。
こうした中でニッポーテイオーは1983年4月21日に生を受けた。超良血とはいえないまでも、十分に活躍を期待できる血統。加えて、折しもリイフォーを買い戻すため来日していた人物が当歳のニッポーテイオーを見て「トロメオに似ている」と漏らしたという逸話も残されている。
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