大胆かつ神経質な性格の持ち主
ダイワメジャーのデビュー戦は2003年12月28日、つまりその年の最終開催日。シンボリクリスエス、タップダンスシチー、ゼンノロブロイらがぶつかる有馬記念の当日とあって、中山競馬場には朝から多くの観衆が詰め掛けていた。
第4レース、芝1600mの新馬戦、熱い視線が注がれるパドックに姿を現したダイワメジャーは、早くも他の馬にはない個性を示す。周回中に何度も寝転がろうとする仕草を繰り返し、ついには「ペタリ」と座り込んでしまったのだ。レースを目前にしてナイーブな面を見せる若駒は多いが、それでも座り込むというのは極めて珍しい光景だった。
ファンの失笑を買ったものの、厩務員がすぐさま立たせたため大事には至らず。また血統や調教の動きから高評価を得て、ダイワメジャーは1番人気で出走を果たした。
「緊張しすぎてお腹が痛くなり立っていられなくなった」と、上原博之調教師が後に説明したが、ろくに返し馬もできぬまま。本馬場でも寝転がろうとする気配はやまない。スタートでは出負けを喫し、ダッシュもつかずに後方からの競馬。途中からジリジリとポジションを上げ、直線でも2番人気モンスターロードとの叩き合いを演じはしたが、そこで息も集中力も切れて結局クビ差の2着に終わってしまう。
明けて2004年1月17日、場所は同じく中山競馬場。2戦目としてダート1800mの未勝利戦を選んだダイワメジャーは、ここであっさりと勝ち上がる。今度は好スタート、3コーナーで早め先頭に並びかけると、直線だけで後続を9馬身も突き放す鮮やかな勝ちっぷりだった。いちど実戦を経験したことでレースの雰囲気に慣れたらしく、デビュー戦ほどには緊張してもいなかった。
2月、連勝を狙って500万下特別のカトレア賞に登録するも除外となり、代わって前走と同じくダート1800mの平場に臨んだダイワメジャーだったが、4着に敗退する。ダッシュよく飛び出し、けれども第2コーナーで引っかかってしまい、最後は失速というレースだった。
芝でもダートでも問題ない、素質もある。上原調教師も、鞍上を務める菊沢隆徳騎手も、ダイワメジャーの力を確かに感じ取っていた。しかしまだ気性は幼く能力を発揮できないでいる。手綱をふたりで曳き、さらに調教助手を乗せたまま、装鞍所、パドックと移動して、ようやく少し落ち着くというありさまだ。デビュー戦でも実は、パドックへ出てくるまでに「出走取消一歩手前」というほど暴れていた。それでも僅差2着と頑張ったのだから、走る馬であることは間違いない。ただ気性が……。
ダイワメジャーの気難しさは、幼駒の頃からだったという。
父はサンデーサイレンス。いうまでもなく日本の競馬史上に燦然とその名を輝かせる大種牡馬だが、産駒にはカリカリとした気性の持ち主が多かったのも事実。
母はスカーレットブーケ。現役時代に重賞4勝をマークし、シスタートウショウやイソノルーブルらとともに“牝馬最強世代”を構成した1頭である。繁殖入りしてからは、チューリップ賞2着のスカーレットメール、福寿草特別でトゥザヴィクトリーやナリタトップロードを完封したスリリングサンデー、準オープンに出世したグロリアスサンデー、そして桜花賞3着のダイワルージュなど、相次いで走る馬を生み出した。産駒はどれも骨量豊か、がっしりとした体型を持つことが特徴で、やはり雄大な馬格を持って生まれた7頭目の仔がダイワメジャーだった。
父譲りの激しい気性だけでなく、母からもらった大きく存在感たっぷりの馬体も、ダイワメジャーの性格形成に影響を及ぼす。同期の馬たちの間ですぐに大将格へと育ち、やがては人間をも睨みつけるようになる。増長したことに加えてパワーもあるため、引き運動すら覚束ない。ゲート入りとスタートの練習を積ませようとすれば5人がかり10人がかり、最後にはホウキまで持ち出して追い立てなければならなかった。やっとのことでゲートに収めるが、扉が開いてもゲートから出ない。教えたことはすぐに覚えるので頭はいいはずだったが、とにかく「人の指示に従わない」仔だったのだ。
美浦に移ってもダイワメジャーの“きかん気”は直らず、それどころかいっそう悪化していった。初めての場所へ来るとイライラを募らせ、時には立ち上がり、持ち前のパワーで厩務員を振り回す。そうして乱暴なところを見せたかと思えば、環境が変わると下痢をするし皮膚病も患うという繊細さも持っていた。
結局、関わった誰もが「クラシック級の逸材」と認める雰囲気を放ちながらまともに走らず、負け、圧勝し、また負けて、3歳3月の時点で1勝止まり。クラシックにはとうてい間に合いそうもない、というところへ来てしまった。
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