生まれた地はアサカオーを
生産した歴史ある名門牧場
89年12月17日、とある病院の一室に、冬の夕暮れが迫りつつあった。午後3時を過ぎたばかりとはいえ、冬至の迫ったこの時期、北海道では4時を境にあたりは暗くなる。
年老いたひと組の親子がテレビを覗き込んでいた。小さな画面に映し出されているのは競馬中継だった。
父の中村吉兵衛はこの時92歳、衰えはさすがに隠せず、病の床にあった。寄り添う息子は名を幸蔵といった。こちらは29年の生まれである。
北海道の浦河で吉兵衛が馬産を始め、あとを幸蔵が継いだ。文字通りの家族牧場を切り盛りする二人が見つめるレースは、朝日杯3歳S(現・朝日杯フューチュリティS)だった。15頭の出走馬の中に生産馬がいた。さて、どんなレースをしてくれるのか。スタートが待ち遠しかった。
ただ、勝利への期待は大きくなかった。
牧場からは以前、アサカオーが出た。68年のクラシックを、マーチス、タケシバオーと共に三強の一角として戦った名馬である。皐月賞もダービーも3着に終わったが、秋の菊花賞を見事に勝ち、同年の年度代表馬に選出された。
しかしながら、以降の生産馬はずっと重賞を勝てていない。実際のところ経営は楽ではなく、倒産寸前に追い込まれたこともあった。長い苦労の末に、幸蔵は重賞の存在を縁遠く感じており、ましてGⅠなど……と諦めに似た気持ちが強かった。だから、この日も、競馬場に行かなかったのだ。
生産馬のアイネスフウジンはシーホークを父に、テスコパールを母に持つ。その母親に、とりわけ深い思い入れを持っていたのが吉兵衛である。名前から想像がつくように、その父親はテスコボーイだ。これも生産馬であったムツミパールという牝馬に配合を申し込んだところ、高倍率の抽選をくぐり抜けて、見事に当選した。
キタノカチドキ、トウショウボーイ、テスコガビーなど、名馬を送り続けたテスコボーイは、日高軽種馬農協の所有だったために種付け料が安く、交配馬を抽選で決めた。貴重な産駒は当然のように高値で取引された。ムツミパールの6番仔として生まれたテスコパールにも期待は大きかった。
しかしながら、2歳(旧表記)の春、生命の危機が訪れた。激しい下痢が続き、診療所に入って治療を続けたものの、回復の兆しが見えなかった。衰弱はひどく、顔にたかったハエさえも追い払えないほどだった。やせ細った馬体に、ついには獣医が「助からない」とさじを投げた。もちろんのこと残念には感じたが、これも運命かと、息子の幸蔵は無念を静かに胸へとしまい込んだ。
だが、吉兵衛は納得しなかった。診療所で最期を迎えるはずのテスコパールを、もう一度牧場に引き取ると言い出したのだ。諦められない気持ちが強く、どうせ死ぬならうまいモノを食わせてやりたい、と親心も働いていた。ここまで衰弱した馬を牧場に戻してどうする、と獣医は反対したが、結局テスコパールは元いた馬房に帰された。
治療中に制限されていた水やエサを、吉兵衛は好きなだけ与えた。同時に、何とか生き長らえてくれと懸命の看病を続けた。すると、一念が馬に届いたのか、テスコパールは死の淵を脱したではないか。いつしか普通の生活ができるまでに回復し、3歳の秋には下痢すらしなくなったという。まさに執念の賜だろう。
競走馬にはなれずとも、繁殖牝馬として立ち直ったテスコパールは、6歳で初仔を産んでからは毎年産駒を腹に宿した。その7番仔がアイネスフウジンである。吉兵衛も幸蔵も、母の苦闘をよく知るがゆえに、息子がGIの舞台に立っただけで深い満足を得ていた。勝ってくれと大きな夢を掲げることはなく、無事の完走をひたすら祈るだけだった。
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